「とにかく私はキヨシに言った。私が言っている人を好きになるとは、そういうレヴェルの話だ。他人の痛みを自分の痛みに感じて、呼吸さえ苦しくなり、その悲しみと苦痛とで相手と自分との位置を確認し合うような、そういう種類の出来事だと。
そうしたら、キヨシは考え込んだ。思うに、たぶん多少センチになったのだ。それまでの軽いおしゃべりが消えて、長い沈黙のあと、一度だけあると言った。もう今から二十年近くも昔のことで、アメリカから日本に引き揚げ、ものを考えながら暮らしていた頃のことだと。横浜のはずれの安いアパートにいて、読書だけをしながら、何もしないで過ごしていた。
その時、一人の日本人と出遭ったと。まだ若い男で、記憶をなくし、ぼろぼろに傷ついていた。自分が誰だか解らず、習慣記憶をなくしているからどうやって生きていけばいいのかも不明で、女の問題でも悩んでいたし、それは、人間はこれ以上ひどくなれるものだろうかと思うくらいに参っていた。息も絶え絶えで、藁にもすがるようにして彼の部屋に飛び込んできたのだ。彼はぎりぎりの崖っぷちにいて、キヨシに救いを求めてきたんだ。
彼を見た時、キヨシもまたひどく傷ついたと言った。青年は何もする力がなく、収入の道も、それを探す方法も思いつけず、しかも恐ろしい陰謀の道具にされていて、このまま放っておけば命にも関わった。だから事態の収拾いかんは、すべてキヨシの能力ひとつにかかっていた。彼が生きていくも死ぬも、すべてキヨシ一人の肩にかかったんだ。そのことに気づいた時、キヨシは使命に目覚めたと言った。それは天命にも似ていたと。
その時の青年の、哀願するような目つきがたまらなかったとキヨシは言った。彼のなんともいえない弱々しい微笑みや、ドアを開く時、ソファにすわる時、ティーカップに手を伸ばす時でさえ、彼はいちいちキヨシの顔を見た。これでいいのかいというようにね。彼は赤ん坊とか盲人のように、手探りで人生を生きていて、絶えず誰かの手助けを必要としていた。
キヨシははっきり言った。青年はとても清潔な顔をしていたと。たいてい白いワイシャツを着て、薄い胸が頼りなさそうに目の前で動いた。そして何かをするたびに哀願するような目が自分を見、そのたびにたまらない気分になった。その気分は穏やかなものなどでは到底なくて、ほとんどノックアウトを食らい続けるような痛みだった。あんなひどい気分は生まれてはじめてだった。助けてやらなければと、自分が命をかけてこの青年を助けてやらなければと思った。あの瞬間、自分は何かに目覚めた。言ってみればそれは、自分一人だけで気ままに生きていくんじゃなく、時には誰かを導いてやらなければならないという自覚だ。ぼくにはその使命があった。ハインリッヒ、これが君の言う例にあたるんだろうか、とキヨシは私に言った」
≪さらば遠い輝き≫より
昔書いていた研究文の打ち込みをしている最中にまた色々と突っ込みたいことが出てきたのでちょこっとこの辺りで独り言。
御手洗……やっぱアンタ
思い込みが激しいだけじゃなくて思いっ切りマリンカリンかかってたんだな、この時(注:マリンカリン→PPG≪女神異聞録ペルソナ≫のステータス異常“魅了”状態のこと)。
って言うかこれ、真実とはニュアンス違うよね。微妙にかなり違うよね(笑)。
・自分が誰だか解らず、習慣記憶をなくしているからどうやって生きていけばいいのかも不明で、女の問題でも悩んでいたし、それは、人間はこれ以上ひどくなれるものだろうかと思うくらいに参っていた。・いや、そこまで酷い状態じゃなかったし。女の問題では浮かれていた時期もあったわけだし。
・青年は何もする力がなく、収入の道も、それを探す方法も思いつけず、しかも恐ろしい陰謀の道具にされていて、このまま放っておけば命にも関わった。・一応工場で働いてたし。ボーナスまで貰ってたし。
・息も絶え絶えで、藁にもすがるようにして彼の部屋に飛び込んできたのだ。彼はぎりぎりの崖っぷちにいて、キヨシに救いを求めてきたんだ。 ・その“ぎりぎりの崖っぷちにいる彼”とやらは“占い師の方にしても、記憶喪失の男になぞめったにお目にかかれるものではないから、たぶんこっちは相当興味深い依頼人だろう。彼自身の勉強にもなるのではないか。”とか
物凄い上から目線でほざいてましたし。
・彼のなんともいえない弱々しい微笑みや、ドアを開く時、ソファにすわる時、ティーカップに手を伸ばす時でさえ、彼はいちいちキヨシの顔を見た。これでいいのかいというようにね。・恐らくこの“なんともいえない弱々しい微笑み”というのは“単なる苦笑い”だったのかも知れないと思う今日この頃……ドアの蝶番が外れそうとかソファがぼろぼろだとかコーヒーがまずいとか、彼の頭の中は随分と辛辣なものでしたよ?
・キヨシは使命に目覚めたと言った。それは天命にも似ていたと。
・助けてやらなければと、自分が命をかけてこの青年を助けてやらなければと思った。あの瞬間、自分は何かに目覚めた。言ってみればそれは、自分一人だけで気ままに生きていくんじゃなく、時には誰かを導いてやらなければならないという自覚だ。ぼくにはその使命があった。・案外一目惚れで“もう結婚するしか……!”とか思い込むタイプなのかも。どこから指令受けてんだか分からん上に本当は違うものにも目醒めていやしないかと気になって仕方がない御石愛好家。
・キヨシははっきり言った。青年はとても清潔な顔をしていたと。たいてい白いワイシャツを着て、薄い胸が頼りなさそうに目の前で動いた。そして何かをするたびに哀願するような目が自分を見、そのたびにたまらない気分になった。その気分は穏やかなものなどでは到底なくて、ほとんどノックアウトを食らい続けるような痛みだった。あんなひどい気分は生まれてはじめてだった。・この辺りは
最早意味不明。関係ねぇよ、薄い胸!(苦笑)
あと漢字使いが“出逢った”ではなく“出遭った”になっている辺りも結構興味深いよね。
(書き手の作意かどうかは分からないけど)
普通“出遭った”は“好ましくないことに遭遇する”という意味で使われることが多いのよ。
いや、これ私は
寧ろそういう意味であって欲しい気持ちもあるんだけどね?
彼との邂逅って、御手洗にとっては本当に事故みたいなものだったんだろうからさ(笑)。
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